10月23日の薩摩ISHIN祭への誘い


昨年第1回目を開催した薩摩ISHIN祭は、今年は10月23日(土)に実施すべく準備を進めている。

薩摩ISHIN祭、はじめて耳にしたという方も多いと思うが、島津義弘公を顕彰することで、その生き様から現代を生きるヒントを学ぼうということでスタートした鹿児島と東京の若手で協力して立ち上げたお祭りである。

内容は、姶良市内にある島津義弘公の所縁の地を巡るウォークラリーと、ウォークラリーのゴールでもある島津義弘公を祀る精矛神社(くわしほこじんじゃ)境内における様々な企画となっている。

薩摩ISHIN祭という名前の由来は、島津義弘公の号の「惟新(いしん)」、明治「維新(いしん)」の2つ言葉にある。

お祭りの概略説明はここまでにして、当日、是非足を運んで頂くためにも、今日は姶良市内にある島津義弘公の所縁の地について簡単にご紹介して行きたいと思う。

まずは島津義弘公の説明から…

島津義弘公は島津氏15代島津貴久公の次男として亀丸城(日置市)に生まれた。初陣は天文23年(1554年)岩剣城の攻防戦である。

その後、九州の桶狭間の戦いと言われる木崎原の戦い、豊後の大友氏を破った耳川合戦、明の軍勢から鬼島津と恐れられた朝鮮出兵、そして「島津の退き口」で有名な関ヶ原の戦いなど、50回以上も出陣を重ねた。

その武功が有名な武将であるが、お茶への造形も深く、千利休に師事したり、朝鮮から連れ帰った陶工に好みの茶碗を焼かせたり、自ら茶道具を作成したりという面もある。

初陣の地「岩剣城跡」(麓には平松城跡):

ウォークラリー出発予定地点

天文23年(1554年)、蒲生勢との戦いの中で、島津義弘公が初陣を飾った城である。その際には伝来したばかりの鉄砲が使用されたことでも有名。麓にある平松城跡は、慶長年間に島津義弘公が居館とした場所で石垣などが残っている。

関ヶ原の戦い前後に住んでいた場所「帖佐御屋地跡(ちょうさおやじあと)」:

ウォークラリー休憩予定地点

栗野から居所を移した場所で10年近く住んでいた場所。近くには朝鮮陶工「金海」によって築かれた宇都窯跡や愛馬である膝つき栗毛の墓などもある。

晩年を過ごした地「加治木館跡」:

ウォークラリー通過地点

慶長12年(1607年)から元和5年(1619年)に85才で亡くなるまで住んだ館である。

御里窯跡(おさとかまあと)、龍門司焼古窯といった焼き物に関する史跡、義弘公が亡くなった時に殉死した家臣に関する史跡である実窓寺磧、後藤塚や庄内の乱の伊集院忠真(いじゅういん ただざね)の墓や加治木、鹿児島の区割りなどに助言をした江夏友賢(こうか ゆうけん)の墓など、関係する方のお墓や史跡も近郊に多く存在する場所である。

島津義弘公を祀る神社「精矛神社」;

ウォークラリーゴール地点

義弘公の神号である精矛厳健雄命(くわしほこいつたけおのみこと)から名付けられている神社である。

明治2年に加治木館内に作られた神社が大正7年の没後300年の際に現在の地に移る。現在の場所は、元々島津義弘公が兄である島津義久公の為に用意した土地であったところを加治木島津家が所有しており、その地を提供した。

境内には、文禄の役の際に朝鮮から持ち帰ったといわれる手洗鉢と石臼がある。現在の宮司は加治木島津家当主 島津義秀氏。

以上。(参考は姶良・伊佐地域広域観光マップ「戦国武将島津義弘を訪ねる」、並びに第1回薩摩ISHIN祭配布資料 等)

このように姶良市内の史跡は、ひとつひとつ調べると島津義弘公の人柄を感じるような史跡も多い。

薩摩ISHIN祭では地元姶良市の観光ガイドの皆様による説明なども実施(昨年度実績)しており、より学べる環境を作っている。

最後に、何故、今、島津義弘公なのかということを書いて終わりにしたい。

島津義弘公は、ご存知の通り、戦国時代の武将である。彼の生き様を追体験して心身を鍛えたのが「妙円寺詣り」などの鹿児島の伝統的なお祭りである。

今年のNHK大河ドラマが「龍馬伝」ということもあり、幕末に目がいきがちではあるが、あの時代の教科書であったのはまさに島津義弘公、その人であった。

幕末の志士達が学んだ島津義弘公を、我々も学ぶことで、少しでも私たちも同じ目線を持てるようになりたい。その想いである。

薩摩ISHIN祭実行委員会代表
吉留大輔

※出典 第2回 薩摩ISHIN祭公式ブログより抜粋しました。